となりのしばふ

日々の記録と内省と

雑記230130

アンガーマネジメントの話。私はけっこうだらしないのが嫌いな方だ。自分のことはもちろんだけど、他人が共有スペースをだらしなくしているのも苦手で、たとえば職場の水場の周りがびしゃびしゃになっていたり、ペーパータオルが残り少ないのに補充されていなかったりするとそれを進んで補いながら、なんで他の人は気にならないのかなと不思議に思ったり、ちょっと呆れたりする。物理的な話だけではなくて、精神的なところもそうで、やることべきことを後回しにしているとか、決めるべきことをあいまいにしているとか、優柔不断な態度とか、そういうのが嫌だ。とはいえ自分が全部きちんとしているかというとそういうわけでもなくて、誰の目も届かない部屋なんか特にごちゃごちゃし、やると決めたことを後回しにすることもある。だけど私の場合、そういうだらしなさは自分にしかわからないところ限定で、他人の目の届くところはほぼきちんと整頓されているし、受け答えも簡潔に結論を話すようにしている。私はこういう意識が根底にある人間なのですが、このまえ読んだコラムに「他人に対するイライラは、自分が我慢していることやできないことを他人がやっているから」というような内容があり、これにはなるほどね~と膝を打った。私のだらしないのが嫌いというのは、他人にだらしないと思われるのが嫌ということで、つまり他人の目を気にしているということだ。だから他人にどう思われるかを気にせずに自分のペースで生きている人がうらやましくてモヤっとするのだ。そもそも「やるべきこと」の「すべき」の尺度を決めているのは私自身で、他の人の尺度ではそれらは「すべき」のカテゴリに当てはまらないのかもしれない。こう考えるようになってから、他人に対してのイライラが少なくなった。自分で勝手に我慢して、他人の行動に目くじらを立てるのが馬鹿らしくなったともいえる。とはいえ性格的にきちんとしている方が好きなので、毎朝出社したら水場をみがいてきれいに拭いて、ピカピカになったシンクに満足して仕事に取りかかる。誰にどうこう思われるからやるのではなく、私が気持ちいいからやるのだ。現代、SNSで他人の生活を覗き見られるようになったので、自分の尺度で他人を断じて勝手にイライラしたり攻撃したりする人も多いのではないかと思う。他人に向けるその怒りは正当な怒りか? まずは自分を顧みるところから。